FOCUS
年頭にあたって

理事長 金子 由美子
 
 あけましておめでとうございます。
 今年のお正月は、とても穏やかで、例年より暖かくてあまり寒い思いをしなかったお正月だったと思います。でもようやく今日は寒いですね。2日くらい前から例年の寒さになっていますが、とても寒暖差が大きくて、体温調整が難しいと思います。
 冬なのに、こんなに暖かいことが気になっていました。今、地球上が異常気象になっており、干ばつや海面水位の上昇、そして感染症の拡大や生物種の絶滅など、取り返しのつかない被害が危惧されている時代を、私たちは生きているわけです。
 そして、2014年は観測史上最も暑い年で、氷河がこれまでにない早さで溶けているという実態です。
 昨年、COP21がありましたが、報道されているときには私たちの意識に上りますが、報道されなくなると、肌で感じる気候ということしかなくなる感があると思うのです。しかし、自分たちが感じる、感じないは別として、今危険な状態であることは、私たちの意識に上らせなければならないと思います。
 この会議はパリで昨年11月30日から12月12日まで、196の国と地域が参加し開催されまして、まず国際合意を目指すということでスタートしたわけです。そしてほぼすべての国が温室効果ガスの排出量削減目標を提出したそうです。
 1997年に、日本で京都議定書が採択されました。そのときは、先進35カ国の参加でしたが、アメリカやカナダの離脱がありました。そして先進国だけがCO2削減義務を負うというのはどうなのかという争点がありましたので、今回は国際的合意を目指すことで始まりました。課題としては途上国対先進国という、当然織り込み済みの問題点だったと思いますが、そのなかで厳しい論議が行われたことは、報道でご覧になりご存じだと思います。
 再生エネルギー技術の導入などの資金援助などを先進国に求めることですとか、新興国といわれる国々が新たに多くの温室効果ガスを排出していますし、このままではさらに進む可能性を持っていますので、同じ地球に住む者同士が「そっちが先だろう、こっちは後だろうと言っている場合ではない」とは思いますが、それを先進国が言ったら、また問題になるということです。
 この宇宙時代、創設者は1970年にすでに「地球はひとつ」というテーマを打ち出されていました。当時は大きすぎると思っていた私たちも、学びを続けるなかで、徐々に、ほんとうにそうだなと、運命を共有しているのだと思わせていただいてきています。その意味でも、庶民の私たちの立場から見ても、空や海や陸は「こっちからは温室効果ガスは幾つね」とはいかない。すべてが繋がっている、ほんとうに線引きができないのだということを改めて思うわけです。
 このパリ協定は、産業革命前と比較し地球の平均気温上昇を2度未満に抑えるとともに、1.5度以内を目指して努力するという長期目標を定め、今世紀下半期に世界の温室効果ガスの人為的排出と森林などによる吸収を均衡させ、実質的排出量をゼロにする。そして、すべての国が排出の削減目標や行動計画を提出し5年ごとに見直し、再提出の際にはより高い目標を掲げることで、長期目標の実現に向け、常に前進させ続ける仕組みをつくった法的拘束力のある国際条約として合意されたものです。また、排出削減のみならず、損失と被害への救済、資金の供与、技術開発と移転、能力構築等、先進国の責任や役割はもとより、途上国に対するそれらを盛り込んだ包括的な協定となっています。
 こういった合意が得られ、しかも196カ国の合意を得たということは画期的な成果だということが言われています。
 しかし、これをリアルなこととして考えたときに誰が実践するのか、どう実践するのか、という問題が出てきます。今世紀下半期のうちに、世界全体の人為的な排出と吸収を均衡させるという目標を掲げて、誰がするのかと。今世紀下半期とは2050年から2100年のことをいいます。私は90歳以上。皆さんは何歳になられるでしょうか? 2000年に生まれたとしても50歳です。「誰がやるの?」ということなのです。
 ほんとうに私たちがこの地球上が危ない状況だと一人ひとりが自覚しないといけない問題ですが、それに対して誰がやるのかという問題と、どう継承するのかという問題が同時に起こってくるということなのです。
 今、私たちがニュースを見ないと意識が薄くなってしまう現状で、どうやって継承させるのかということを、本気で考えていかなければいけないということです。
 自分たちの住む地球だと思ったら、ほんとうに意識づけを自分自身にしていかなければならないと、このお正月の暖かさを通して改めて思いました。
 先日、北朝鮮が水爆実験をしたとの報道がありました。真偽のことが言われていますが、隣国、アジアの関係ということを改めて考えさせられました。また、中東ではサウジアラビアとイランの国交断絶ということが、別の国にも及んでいるということです。
 サウジアラビアの主流はイスラム教スンニ派で、イランの主流はシーア派というなかで、日本人から見ると同じ根を持つ、兄弟関係にあるような人たちの対立が深刻化しています。
 そして地球全体からいっても、近い国の関係が危険な状況になっていることが大きな課題として出てきてます。
 もう一つ大きく気になるのは、ISの問題とそこから派生する難民がヨーロッパのなかで大きな問題になっていることです。ISのテロ問題は、ヨーロッパの人たちほどの緊迫感を日本人は持ち得ていませんが、やはり繋がっている大きな課題だと思います。
 昨年一年をふり返ると、昨年の年頭言でお話した、1月7日に起こったフランスの出版社襲撃の事件がありました。シャルリー・エブドという風刺画を扱っている出版社でしたが、そのときの問題点は、私が認識しているものとしては、イスラム教徒が大切に思っている指導者を風刺されることに対しての抗議が動機のように受け取れました。
 そのことから異なる文化、宗教が大切にしているもの、それが自分にとっては大事ではないとしても、人さまが大事にしていることを大事に思えないということが、私たちの課題だと思いました。
 また、昨年11月、これもパリで起こった同時多発テロ。これは死者130名、負傷者300名以上という大きなテロ事件になりましたが、飲食店や、コンサート会場、サッカー場などといった所がテロの対象となりました。
 では、なぜこの年末に起こったこともフランスだったのか。フランスは移民や難民を多く受け入れていますが、かなり厳しい同化主義政策が敷かれているそうです。移住してきたイスラムの人たちのなかに不満が高く、テロリストなどに協力する潜在的なグループになりやすいと分析されていました。
 こういったことから改めて私は思ったのです。いつからこのような異常気象になったのか、そしてなぜこんなにテロが生みだされていく世の中になったのかと。
 50年前は少なくともこのような異常気象は想像していませんでしたし、ISのような集団が出てくることも、近々3年前までは想像だにしなかったと思います。
 ではなぜこういう時代になっているのか。それは科学文明の発達に伴って起こっているという側面と、そして足もとで異文化、異質を受け入れられない人間が増えているのではないかと思ったわけです。
 では一番足もとの小社会である家庭がどう変化してきているのか考えてみたときに、まず日本を見ていきたいと思うのですが、1960年前後から70年代は、まだ日本の家族は大家族が主流でした。私は1960年代から70年代は子どもでした。思い出されましたのは母方の実家へ行ってのお正月。母は三人きょうだいでしたので、その三人のきょうだいの子どもも全員集まる。姉と私、そして従姉弟たちで11人おりますので、正月はとても大勢になります。そういう家族を伯母である長男嫁が切り盛りしていました。子どもの私たち姉妹は母に着物を着せてもらい、今はあまり聞かなくなりましたが、あのとき主流の凧揚げ、歌留多、それから福笑いや、羽根つきなどをし、大勢の従姉弟たちとそういった遊びをしたりしました。子どもだったあのとき、それはとても楽しく、おせちが美味しく、お年玉ももらってと、とてもいいお正月だったと思うのです。しかし、こうやって大人になってふり返ってみると、親世代、昭和一桁世代の母たち、ましてや長男嫁の伯母は、それを切り盛りすることに、どんなに大変であったろうと大人になって思えるのです。大家族で、違った環境で育った人たちが集まる、それが日本の家族の一般的お正月の姿でした。つまり違った環境、ある意味、異文化を持つ者同士が我慢したり、主張したり、譲ったり、譲られたりするなかで人間関係がつくられていた。
 それはその時代、当たり前だったお正月の風景でした。戦争が終わった直後の時代、私の両親や専務理事の世代の、戦禍の中で過酷な青春時代を通られた方たちは、嫁姑の関係など大家族の大変さはあったにしても、そのお正月は幸せの象徴としてあったのだと思います。そんな時代を経た方たちが迎えるお正月の感覚と、戦後、戦争を知らない私たちが思う感覚は、その「大変」の意味合いが違ったのではないかと思うのです。私たちから見ると大変な人間関係のなかで、大家族で皆でいることが幸せとして受け止めていた親世代が、私たちを育ててきてくれたのだと改めて思います。
 このように知らない間に家庭という場が、無意図的教育の場として、人間が集まれば必ず出てくるような、さまざまな意識が混在する雰囲気のなかで、子どもたちが成長していった時代なのだと思います。
 この目には見えないけれど、その雰囲気や意識のやり取りのなかで、また喧嘩をしたり、仲直りをしたりする雰囲気のなかで、人との調和を感じ取れた時代だったのだろうと改めて思うわけです。
 この見えない空気がどんなに価値あることかを、その時代の未来である現時点から、改めてこの学びを通して見たときに思います。
 こうした、個人のレベルでも、異文化、異質の調整が、不断になされていた時代だったのではないか。しかし、現代は、私たちが親になってさまざまな便利さを享受するなかで、一つのことを共にしなくても個別に楽しめる、或いは個別に仕事を可能にするツールができて、なるべく楽に生きる価値観が広がっている時代といえると思います。
 核家族化のなかで、知らない間に調整力を希薄にさせる人間をつくっている。科学文明が発達した世の中で、そういった調整力を希薄化する土壌のなかに私たちがいるということが、今の問題に繋がっていると思うのです。そうした課題は世界の国々も同じでしょう。
 日本人はもともと、歴史的に地理的条件として、狭い島国で、四方を海に囲まれて、ほぼ単一民族、単一言語で、共に暮らしてきたルーツを持ちます。その中でどうしたら共に暮らしていけるのか。共有、連携をしていけるのかということの智慧を引き出していただいてきたのだと思いますが、一面でそれを当たり前にしてきた文化だと思うのです。陸続きの国というのは、やはり外へ、外へと、例えば自国が嫌だったら隣国へ行くとか、そういうことも陸続きでしたら可能です。ですから私たちには島国としての特長があるのです。
 しかし、今は昔と環境的にも違っています。そこに今度は意識を変えていかなければならない課題があると創設者は仰っていました。
 阿吽の呼吸が通じた時代からグローバル化された時代、社会では、日本人がグローバル意識を持って、異質を認め合い、話し合い、伝え合い、異質を理解していく努力がもの凄く必要になってくる。その上で、もともとある共有、連携していく家族主義的な体質を生かしていくことができるはずです。
 昨年、国の形を大きく変えていくのではないかと危惧される安全保障関連法案が可決成立されました。私たちは、平和でいたということ、平和主義、平和憲法を堅持し得た精神というものをあまりにも当たり前にしてきたのではないか。そして改めてそれが世界にとってどれだけ貴重な価値ある精神かを自覚していかなければならないと同時に、誇りをもってグローバル社会に伝えていかなければならない。そういった使命が日本人にあるということの自覚をしていかなければならない時代にあると思います。
 なぜならば、武器で平和はあり得ないということを現代は証明していると思うからです。現実に今、ISに対してどうしたらいいのか世界がほんとうに頭を悩ませています。
 地続きの国々の、戦い、勝ち取ることが当然、戦う以外選択肢があり得ないとどこかで思っている認識に対して、島国だからこそ醸成されてきた精神が、どんなに価値があるかということを見いださなければなりません。地球という惑星に住み合う住人として、共に生きる道を模索していかなければならないのです。共に住み合うことを共有し、連携していくことの価値を、まず私たち日本人自らが認識していくことがどんなに重要か。地球や人類の滅亡が絵空事ではないと思われる危険な時代を私たちは生きているのです。創設者は、グローバル意識を持ち、グローバル文明を創造していくことが今後の私たちに課せられると仰られました。そして大事なことは、それぞれの国、それぞれの民族が固有のアイデンティティを持っているということ。その特徴あるそれぞれの文化を集合したとき、グローバル文明としての新しい文明の創造がなされるでしょう、と創設者は説いています。
 つまり個々においても、それぞれの人、それぞれの背景というものを大事に思う、その前提の中には、まず自分自身が尊厳なる存在だと思えた人、自分を大事に思えた人が、他者を大事に思えるのです。今の現代社会のさまざまな問題を思うときに、自分自身を大事に思えないから、人も大事に思えない。しかし私たち一人ひとりが必要あって生かされているのだと、自然界の摂理が教えています。
 その摂理から見ると、すべての人種、民族、文化が必要あって存在しているのです。ですから異質を認め、その異質によって補完し合える人間をつくっていくこと、そういった人間教育をしていかなければならないのだと思いますし、私たちはその人間教育をしていただいてきました。その確認と、それを継承していかなければならないと思います。
 そして皆が生きられる地球に戻すために、「地球に優しく」という前に、私たちが汚したものを、私たちの責任で戻していく。私たち人間が排出するCO2と、そのCO2を吸収する森林のバランス関係が崩れているところに今の温室効果ガスの問題があるのだとすれば、無自覚にも、排出は多くし、そして吸収する森林を伐採して、アンバランスにしている私たちがいるわけです。
 今アマゾンで問題になっているのは、違法伐採だそうです。先日テレビで報道されていたのですが、違法伐採をすることで森林が無くなる。しかし伐採する方たちには生活がかかっています。でもこの時代を考え、では私たちが何に気をつけなければいけないかというと、アマゾンへ行って違法伐採を止めることはできない。
 そのことを足もとに引き寄せて、どうバランスをとるかというと、今申し上げたようにもともと私たちは欲があって「もっともっと」という欲をかいている。「これが手に入って幸せだ」と思う次の瞬間から、「でもまた次」となっていく。
 だから私たちにできることは「もっと、もっと」という欲をかかない自分になることであり、そうすればもっと違う方向に世の中が行く可能性はあると思うのです。ですからこのバランスをとる意識を育てる教育をしていくこと。つまり自分自身に「足るを知る」、「あることが当たり前ではない」という意識を育てることだと思うのです。
 また、先ほど、皆さまの発言のなかでTさんが、自分には「人のことを思う気持ちは強くあるかも知れないけれど、邪険な気持ちも人より強いので、そこを直していきたい」と仰っていたと思います。そこなのですけれど「人を思う気持ちはあるかも知れないけど」と、あるものはさらっと言い、無い方は重大視する。これは私たちの思い方のなかに、あるものは当たり前にし、無い方を苦にしていくということがあります。しかし、あるものがどれだけお陰さまで、ルーツからいただいたありがたいことなのかという思い方はできない。
 あるものに感謝せず、ないものに悩み苦しむ。そのアンバランスな思い方が肉体の上にも環境にも影響を与えていく。正しくありのままに見る見方ができる人間が増えれば、いろいろな意味で世界が変わっていくと私は思うのです。
 いただいたものと、自分のマイナスとなるものをありのままに見ていけるようになったこと。そしてそのありのままに見えるようになれた大もとというのは、自分の尊厳に目覚められるようになったからなのです。自分が生かされている、生まれてきたことそのものが肯定のなかにあるということなのです。だからそれを自覚していくことこそが、実は今のテロの問題にも、地球環境の問題にも私は通じていく問題だと思います。
 私たちはまず、国の動向、世界の動向に意識を持って、私たちが庶民だからこそできる足もとの実践をする。地球家族として皆で生き合わなければいけないのですから、そこを課題にして、また2月7日には宮崎支部40周年記念 第13回生涯教育宮崎県大会がありますから、感謝を持って、皆さんと共にということを心がけていきたいと思います。
 今年は申年です。申年というのは「果実が成熟して固まっていく状態」という意味があり「厄が去る」という意味もあるということなので、ほんとうに厳しい危機的な状況がありますが、その厄がさよならと言ってくれるような、去っていけるような年に少しでも近づけたらということを願いにして、皆さんと共に今年をスタートさせたいと思います。


(新年の顔合わせから)
 
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