生涯教育への願い 略 歴 著 作 エッセイ 言 説 野村佳子記念館
不易流行 | 修証一如
不 易 流 行

2003年1月8日 新年の挨拶から

 今年も一段と厳しい情勢の中での年明けとなりましたね。
 今の世界の情勢から見れば、「平和」が最大の課題だと思いますが、「平和」を願うということは、最も簡単に言えば嫌いな人をなくすということだと思うのです。
 いくら世界平和を叫んでも、隣人を嫌っていてそれを言うことはできないと思うのです。
 リトマス試験紙ではありませんが、自分に「平和」を口にする資格があるかないか、一番簡単に知る方法は、自分の心の中に人を厭う気持ちはないか、人を避ける気持ちはないかを問うことだと思うのです。私はそれが平和への絶対の道だと思いますし、近道だと思います。
 人間は感情の動物ですから、ちょっとしたことでも人に恨みを持ったり、嫌ったり、憎んだりしますが、それで苦しむのは自分自身だと思うのです。人を憎むことは、自分が苦しい。憎まれる方も苦しいかもしれませんが、憎む方も実はより苦しいと思うのです。
 それは自分自身がつくっている苦しみなのだから、自分の心の奥を深く見つめてみれば、人を嫌う気持ち、憎む気持ちがあることが見えてくるはずです。
 そうした心を見つめ、乗り越えていって、はじめて「平和」という言葉を口に出せるのだろうと思うのです。
 世界平和というのは大きな課題であるだけに、私たちが自分自身から何をしなければならないかと言えば、まずそれからだろうと思うのです。
    
 「不易流行」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。『原論』の中にも書きましたが、これは松尾芭蕉が俳諧の用語として使った言葉です。
 辞書を見ますと「不易とは、詩的な生命の、基本的に永遠性を有する本体である」とあり、「流行とは、詩における流転の相で、その時々の新風の体である」とあります。
 そしてさらに、この不易と流行の二体は、「共に風雅の域から出るものであるから、根本においては一に帰すべきものであるという」と書かれています。
 風雅、すなわち詩歌、文章といったものの域から出たものであるから、別々に見えるけれども、どちらも一つに帰するものだというわけです。
 私たちが日頃学んでいることから言えば、この現象世界は一瞬たりともとどまっていることはない。万物は流転している。
 しかし、その現象世界の奥には、不動の、変化しない本質の世界がある。
 「不易流行」とは、これを言っているのだと思うのです。
 私たちは、どうしてもその二つを分けてしまっているように感ずるのです。
 「不易」の本質というものがわかっても、かといって本質にはなれないものがある。そして、どちらかといえば常に「流行」の方に、変化の方に流されている。そう思うのです。
 しかし、「不易」も「流行」も根本においては一つであり、どちらもが本物であるならば、そのどちらをも正しく見なければならないわけですね。
 先日、テレビで日野原重明先生と瀬戸内寂聴さんが対談されているのを見ましたが、お二方が揃っておっしゃっていたのは「大いなるものに生かされている」ということでした。そして「生かされているのだから、お返しするのが当たり前」とおっしゃるのです。
 お二方のように達観された方ほど、自分で生きているのではなく、生かされているということが実感になられているのだと思うのです。そして、本質の世界、不変の一色の世界の体得がおできになるのだろうと思うのです。
 凡夫はなかなかそこまでの境地には行かれず、どちらも中途半端になりがちです。
 「不易」の本質の世界に生き切ることもできず、「流行」にしても、動きの実態を見るのではなく、変化の表層だけを見て、その変化に流され、その中に巻き込まれてしまう。
 しかし、そのどちらもが一つのものであるとすれば、変化の中に変化しないものを見られるようにならなければならないし、不変の世界も絶えずそこから変化する世界が出てきていることを知らなければならないと思うわけです。
 こうしたことがわかってきたら、人生の達人になれるのだろうなと思うのです。
 皆さんは、あまりにも現象面に右往左往しているのではないでしょうか。少しでも自分に不都合なこと、つらいこと、悲しいことが出てくると、あまりにもそれにとらわれすぎて、右往左往してしまいませんか。
 しかし、そうした現象がどこから出てくるのかを究めていけば、すべては本質の世界から出てくるのに違いないわけですから、そうしたことに一々とらわれて、右往左往することはなくなるのですね。
 昨年の国際フォーラムの基調講演の中でもお話しした「空即是色」「色即是空」の意味するところ、この現象世界と「空」の世界、本質の世界とはけして別々ではなく、循環しているのだという、その真実をこの「不易流行」も語っているのだと思うのです。
 芭蕉も俳諧の世界の聖人ですから、そうした真実の悟りができていたのでしょう。現象面を見ても、その奥の本質世界までを見ていたのでしょう。だから、あの短い五七五の句の中に真実が籠められて、名句が生まれたのだろうと思うのです。
    
 もう一つ、これからの生きる方向性についてお話ししたいのですが、いま日本は経済大国と言われますが、私はこれからは「文化小国」をめざすべきだと思うのです。
 大きな国でなくてもいい。小国でいいから、キラリと光るものを持つ国になってほしいと思うのです。
 そうなるためには、貪欲にモノカネを求めていては駄目だと思うのです。そうした欲望によって大国になっても、私はけっして素晴らしい国だとは思わないのです。
 昨年お話ししたように「足るを知る」心になればよいのです。有限の地球なのだから、どこまでも成長していくなんてあり得ない。だとすれば、それは世界全体の方向性としても必要なことだと思うのです。
 これも昨年「修証一如」ということでお話ししましたが、やはり人間の質を高めるためには、物があり過ぎては駄目だと思うのです。人間の欲望というものは、あればあるほど増大していくものだと思います。しかし、捨てる気持ちになると、それがまた不思議に次々に捨てていきたくなる。たとえ足りなくても、足りなさを悲しむのではなく、簡素化を喜ぶようになる。これも一つの人間の本質だろうと思うのです。
 その替わりに、どこにいても他者から尊敬されるような、愛されるような、そうした資質を造る。そうした資質を持った日本人を造る。それを皆さんに、特に自分の子どもさんたちにしてほしいと思うのです。
 人を愛することは、最も尊いことなのです。好きとか嫌いとかを超えるものなのです。これは私の真実として、皆さんにお伝えしたいと思います。今、あまりにも人間社会が悲しい状態ですから、まず身近なところから、人を愛することを始めましょう。
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